要点Q&A
translationese(翻訳調)とは?
翻訳された文章が、同じ言語で最初から書かれた文章とくらべて帯びる特徴のことです。言語学者マーティン・ゲラースタムが1986年に名づけました。原文の言語が訳文にうっすら透けて残る「指紋」で、誤訳とは違います。一語一語は正しくても、リズムや間の取り方が借り物になり、ネイティブには機械が書いたように読まれます。流暢でプロの翻訳にも現れます。
日本語が読めない場合、不自然さをどう見抜く?
ツールでは見抜けません。正しさは検出できても、着地の感覚は検出できないからです。複数の日本語ネイティブに公開前のコピーを見せ、「正しいか」ではなく「どう感じるか」を聞く。一人では好みかもしれないので、二人目で本物の信号かを確かめます。再翻訳ではなく、短いレビューです。

TL;DR

日本語のネイティブである私が、複数社の同席する場で自分の訳文を「機械翻訳みたいだ」と言われた。言葉も文法も正しかったのに。その正体は translationese(翻訳調)——原文の言語が訳文に残す「指紋」で、下手な翻訳ではなく、流暢でプロの仕事にこそ現れる。正しさチェックでは捕まらず、日本語を読めないチームには感じ取れない。答えは「もっとうまく訳す」ことではなく、問いを「正しい?」から「どう感じる?」へ変え、複数のネイティブに着地の感覚を聞く工程を一つ足すことだった。

この記事の要点

今でも少し、しみる一言

何年か前、あるフィンテック製品の画面を日本語にした。私は日本語のネイティブだ。すべての文字列を二度読み、用語をそろえ、言い回しをなめらかにした。納品したとき、これはきれいに仕上がったと本気で思っていた。

レビューは、複数社が同席する場だった。よその会社の上司たちも部屋にいた——この細部を、正直、必要以上によく覚えている。日本人のレビュアーの一人が私の文字列を読み進め、少し止まって、こう言った。「機械翻訳みたいに読める」と。

私はうまく返せなかった。言葉は正しかった。文法もおかしくない。私がそれまで「間違い」だと教わってきた種類の間違いは、どこにもなかった。それなのに、ネイティブの読み手は数秒で何かを嗅ぎ取った。しかも、私の評価が気になる人たちの前で。

あの一言は、今でも少ししみる。それでも私はこの言葉を手放さずにいる。結局のところ、私の仕事について誰かがくれた助言の中で、いちばん役に立ったものだったから。

間違ってはいない。ただ、人が書いたようには聞こえない

居心地の悪いところを正直に書く。私はその場ですぐには直せなかった。すぐには、見えなかったからだ。自分の書いた文が、自分には普通に見えていた。

だから私は、読むことにした。翻訳ではなく。本物の日本語の製品を。言葉のことなど意識せずに、みんなが毎日使っているもの。オンボーディングの流れ、エラーメッセージ、空っぽの画面、ボタン。母語を読むときのやり方で、つまり理屈ではなく感覚で読んだ。そして、あの文たちの運びと、自分の文の運びのあいだにある差に、少しずつ気づき始めた。

私の文は、正確だった。意味はちゃんと渡っていた。でも、その下にある英語のかたちまで、いっしょに渡してしまっていた。リズムが借り物だった。一語一語は、たしかに本物の日本語だ。ただ、誰かが腰を落ち着けて書いた、という感じがしない。

正しいことと、人間らしいこと。これは別々の的だ。私はずっと、片方だけを狙っていた。

それには名前がある。translationese(1986年)

私がつくってしまったものには、名前がある。言語学者のマーティン・ゲラースタムが1986年に「translationese(翻訳調)」と呼んだ。同じ言語で最初から書かれた文章とくらべたとき、翻訳された文章が帯びる統計的な「指紋」のことだ(参照情報)。

私が大事にしたいのは、この「指紋」という言葉だ。translationese は、下手な翻訳者が書き換えてしまうものではない。翻訳という工程そのものが残す痕跡で、原文の言語が訳文にうっすら透けて見える。研究者がこれを調べるのは、ぎこちない仕事だけでなく、流暢で、プロの、ネイティブ品質の仕事にも現れるからだ(研究論文)。だから、私の仕事にも現れた。

私はずっと、不自然な文章を「腕の問題」として扱ってきた。でも、それが工程の指紋なのだとしたら、丁寧さだけでは消えない。ここで、日本語を世に出す人にとっての本当の問いが立ち上がる。「十分にうまい人を雇えたか」ではない。「うちの工程には、その指紋を捕まえる工程が一つでもあるか」だ。

たいていのローカライズの流れには、正しさを確かめる工程はあっても、指紋を確かめる工程はほとんどない。その言語を感覚で読めない人には、指紋が見えないからだ。

実際に変えた、三つのこと

本物の日本語を読むうちに、具体的な癖が身についた。どれも語彙の話ではない。すべて、文がどう着地するか、の話だ。

一文の長さ。英語は勢いにごほうびをくれる。節が積み上がっていく。それをそのまま日本語に持ち込むと、重くて、翻訳くさかった。自然な日本語の製品コピーは、英語のリズムが示すよりずっと短いことが多い。長い一文を、二つか三つに切った。意味は残り、機械っぽさは落ちた。

読点をどこに置くか。日本語では、読点が読み手の視線をどこで止めるかを決める。どの語に、小さな溜めを与えるか。着地させたい語の、すぐ手前に読点を置くようにしたら、平坦だった文に焦点が生まれた。同じ言葉なのに、重みが変わる。

どこで改行するか。日本語の画面では、テキストは折り返す。そして、どこで折り返るかは、中立ではない。悪い位置での改行は、正しい文をぎこちなく読ませる。よい位置なら、落ち着いて読める。UIでは、改行の位置は「書くこと」の一部だ。

正しさは、言葉に宿る。自然さは、間の取り方に宿る。そして、翻訳された文が静かに取りこぼしているのは、その間の取り方のほうだ。

罠。日本語が読めなければ、どうやって気づく?

反対側に立ってみてほしい。製品を出すのはあなただ。でも、あなたは日本語を読めない。

私のあの文字列は、あなたが回せるチェックすべてを通っていただろう。用語集は一致。文法は正常。スペルチェッカーもきれい。機能QAも問題なし。そして、ネイティブが書いた——多くのチームがゴールラインとして安心する、あの一点まで満たしていた。

すべての信号が青。それでも、届けたい相手には、機械が書いたように読まれていた。

これが罠だ。しかも、努力が足りないせいではなく、仕組みの問題だ。日本であなたを最も傷つける欠陥は、ツールには見えず、原文を書いたチームにも感じ取れない。その言語を感覚で読まないかぎり、見えないのだ。

コストは、静かだ。日本の買い手は慎重に読み、決める前に、その会社がどれだけ本気で、どれだけ信頼できそうかを量る傾向がある(背景/背景)。ほんの少しずれたコピーは、エラーを吐かない。ただ、読み手があなたを信じるかどうかを決める、まさにその瞬間に、あなたを少しだけ「よそ者」に見せる。数字ではなく、方向としての話だ。それでも、気づかないまま取りこぼしていた成約として、あとから効いてくる。

問いを変える。「正しい?」から「どう感じる?」へ

答えは、もっとうまく訳すことではなかった。問いを変えることだった。

「これは正しいか?」は、言葉についての問いだ。ツールが答えてくれる。用語集も答えてくれる。必要ではある。でも、十分ではない。指紋は正しさチェックを生き延びる。それは、そもそも間違いではないからだ。

「これはどう感じるか?」は、読み手についての問いだ。答えられるのは、それを母語として読み、実際の顧客と同じように反応する人だけだ。この「感じ」を捕まえられるのはネイティブの言語レビューだけで、自動チェックや機能チェックでは代わりにならない(出典)。ツールが弱いからではない。「感じ」は、ツールが探すたぐいのものではないからだ。

一行にすると:正しさは、これからも確かめればいい。そこに、着地の仕方を確かめる工程を一つ足す——本能で読む人に、渡して。

明日から、安く変えられること

変えることは二つ。どちらもお金はかからない。

一つ目。世に出す前に、コピーを複数のネイティブに読んでもらう。聞くのは「正しいか」ではなく「どう感じるか」だ。読み手が一人なら、データは一つ。二人目がいれば、それが好みの問題だったのか、本物の信号だったのかがわかる。翻訳し直すのではなく、短いレビューでいい。それでも、それまでの工程をすべてすり抜けた指紋を、ここで捕まえられる。

二つ目は、もっと個人的な話だ。私は今でも、自分の日本語を他人に読んでもらっている。あの会議のとき、私は自分の文の中の指紋を確実には見抜けなかった。今なら見抜ける、とは考えないようにしている。自分の言葉に近すぎると、かえってその癖が見えなくなる。今の私にとっても、それはあのときと変わらない。

だから——複数のネイティブに、どう感じるかを聞いてから、世に出す。これは私が自分の仕事にしていることであり、私たち Hiraki がやっていることでもある。

ダッシュボードへの、静かな問い

あなたはたぶん、自分たちの日本語が正しいかどうかを追っている。たいていのチームは、その数字を見られる。

ここに、たいていのダッシュボードに載っていない項目が一つある。あなたの公開中の日本語を複数のネイティブが読んで、読み心地を正直に教えてくれたのは、最後にいつですか? もし答えが「よくわからない」なら、それは失敗ではない。まだ回していないチェックが一つある、というだけのことだ。出発点がほしいときは、日本参入のReadiness Checkが、まさにそこを見るためにあります。

よくある質問

誤訳とは何が違うのですか?

誤訳は「間違い」です。意味がずれている、用語が違う。ツールや文法チェックで捕まえられます。translationese は間違いではありません。意味は正しく渡っています。ずれているのは、リズムや間の取り方といった「読み心地」のほう。だから正しさチェックを生き延びてしまいます。

ネイティブの翻訳者に頼めば安全ですか?

それだけでは足りません。日本語ネイティブが二度読み、用語をそろえても、「機械翻訳みたい」と言われることがあります。translationese は工程が残す指紋なので、ネイティブが訳しても、自分の書いた文の指紋は自分には見えにくい。だから、書き手とは別のネイティブの目を、もう一つ通すことが要ります。

機械翻訳やAIを使えば直りますか?

方向が逆です。translationese はもともと翻訳工程が残す痕跡で、機械翻訳はその痕跡が強く出やすい。AIで下訳を作ること自体は否定しませんが、「機械っぽさ」を消す工程は、感覚で読むネイティブの人にしか担えません。ツールを足すのではなく、人の一工程を足す話です。

なぜ日本での成約に効くのですか?

日本の買い手は慎重に読み、決める前にその会社がどれだけ本気で信頼できそうかを量る傾向があります。少しずれたコピーはエラーを出しませんが、信じるかどうかを決める瞬間に、あなたを少しだけ「よそ者」に見せます。これは数字ではなく方向の話ですが、判断の入口で効いてきます。

いちばん安い第一歩は?

公開前に、複数のネイティブにコピーを見せ、「正しいか」ではなく「どう感じるか」を聞くこと。短いレビューで済み、再翻訳は要りません。一人は一つのデータ点、二人目でそれが好みか信号かがわかります。